2023年12月19日(火)
12月9日、茅ヶ崎市開高健記念館の開館20周年記念パーティーを開催しました
公益財団法人 開高健記念会は、開高34年目の命日にあたる2023年12月9日、茅ヶ崎市開高健記念館の開館20年を祝う記念パーティーをレストラン「TREX CHIGASAKI OCEAN CAFÉ」(茅ヶ崎市菱沼海岸)で開催しました。
記念会の会員をはじめ、茅ヶ崎市政関係者、熱烈な開高ファンでもある芥川賞作家の大岡玲氏、直木賞作家の角田光代氏ら文学関係者、また地元ラチエン通り商店会の代表者ら約90人が集まり、20年の歩みや開高の思い出話に花を咲かせました。また、『MOCT(モスト)「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』で第21回開高健ノンフィクション賞を受賞した青島顕氏(毎日新聞記者)に対し、開高健記念会から記念品として直筆原稿版『夏の闇』を贈呈しました。
来賓のごあいさつを一部紹介します。
◾️大岡玲氏(芥川賞作家)のごあいさつ
私は開高さんが大好きで、これまで様々な媒体で開高作品について書いたりしゃべったりしてきました。私にとっての最初の開高体験は、『日本三文オペラ』という名作を中学1年で読んじゃったことです。「あたる」というか、その後の影響力が強くて。放埒で生々しい、輝きがあると同時に陋劣でもある世界が展開する。牛の内臓のごった煮にニンニクぶちこんだみたいな、ものすごさに圧倒されて開高信者になっちゃった。
開高さん没後20年の2019年に岩波文庫で「開高健短篇選」を私の選で出し、開高健論の集大成みたいなことを書かせていただきました。開高さんは芥川賞をおとりになったとき「外へ」ということをおっしゃっていた。つまり日本の近代文学においては私小説的にジクジクした内面性を描くのが小説の王道ということになっていたが、開高さんはそこに敢然と反逆しました。ただ、それは開高さんの内面があまりに強過ぎたので、内面を書くと内面につぶされちゃう可能性があったということもあったと思います。だからこそ外に行かざるをえなかった。でも、自分の内面の強烈さに、やがて「外」では物足りなくなった。その結晶が『夏の闇』だと思います。
根源にあったものはやはり戦争でした。開高さんが10代のころ機銃掃射を浴びて、撃ってきた飛行機の搭乗員が笑っているのを見た。自分が家族とわずかの食料を食べるときにあたかも奪い合いのようになってしまう局面で、自分がそれを食べてしまう。その苛烈さにずっと傷ついていたという気がします。開高さんはすごく柔らかな感受性をもっていたので、その記憶が出てくると自分がつぶれちゃう。そういう場面は、「外へ」と言っていた小説にもいくつもみられる。そうした心性が飽和点に達したときに、ベトナムへ行かざるをえなくなったんだというのが私の考えです。
開高さんはルポルタージュも多く、創作よりも多いくらいお書きになりました。しかし、『ベトナム戦記』は、もう単なるルポではありません。普通のルポの作家は自分が行って客観的な立場から何かをみてルポを書く。ところが、開高さんは自ら「場」になっちゃう。現地に行って、自分自身をルポの現場にした。つまり、ベトナムに行って死ぬような思いをして何をしたかったのかと言えば、自分の内面がそこでどんなふうになるか見てみたかったんだというのが私の解釈なんですね。
もし開高さんが平和な時代に生まれていたらどんな人になっていたんだろう。コピーライターとして一世を風靡して、女性がお好きだったから数多の浮名を流したりとか、あるいは学問的なこともものすごくお好きだったんで学者になってすごい業績をあげたとか……。いま開高さんのwhat ifを感じる大きな理由は、ウクライナやイスラエルについて、毎日ニュースをみるのが嫌になる状態っていうのがある。あの、悲惨という言葉さえ空々しいほどの場所にも、もしかしたら開高健が将来生まれるかもしれない。しかし、敢えて言えばそこに開高健が生まれてほしくない。「悲惨なカイコウ」ではなく「楽しいカイコウ」が生まれて、楽しい開高文学っていうものが出来てくれればこれに勝るものはないかなと、今この開館20周年のおめでたい日に思っております。
◾️角田光代氏(直木賞作家) のごあいさつ
ずっと開高ファンだと言いつづけているので多くの方が「開高健さんに影響を受けて作家になったんですよね」と言われることが多いんですけど大きな間違いで、私がデビューしたのは23歳、開高健作品に初めて会ったのは28歳なんですね。もし作家になる前に開高健作品に会っていたら「作家になりたい」なんて野望を叶えたいと思っただろうかと思う。
男性作家の開高ファンは多いんですけど、女性作家のファンがあんまりいなかったので、すべての開高がらみの仕事が私に集中しまして。30代のときは一生懸命やっていたんですけど40代になってだんだん申し訳なくなってきて。ファン代表がどんどん底上げしていって、みなさん今こそ若い開高ファン探しましょう、特に女性ファンを探しましょうよってずっと思っていて。ときどきいるんですよね、言わないだけで、あちこちに潜んでいる。きょうも私は会場で見つけて、若い女性の方がマジェスティックホテルにも泊まったという話をされていて。そうするとみんなわっと行くでしょ。それでお仕事をお願いするとその人、嫌になっちゃうんですよね。だからわっと行かないように探しましょうよ。若い開高健ファンを見つけることを使命として頑張って、何とか魅力を伝えていく方法がないかと考え続けたいと思います。
作家と作家の小説を残すのは、読者、関わったみなさんの愛でしかないと思うんですよね。愛があれば作家は生きつづけるし、小説もずっと残るとこの場で確信しましたので、私もそういうものが書けるよう精進していきたいと思います。
◾️吉岡忍(日本ペンクラブ前会長) のごあいさつ
1月に開催したイベント「《ふるさとと文学2022》開高健の茅ヶ崎」のライブステージ映像を作るため、開高さんの作品を読み直しました。思い出したのは私が18歳、はじめてベ平連のデモに参加し、開高さんにお目にかかったときのことです。
アメリカからもどってきたばかりの小田実さんから、向こうの反戦集会の参加者がつけていたというバッジを見せてもらいました。ピースマークをあしらったカラフルな缶バッジです。「これいいですね。日本でもつくりましょうよ」と言ったら、小田さんに「おまえな、ベ平連は言いだしたやつがやるんだよ」と言われてしまいました。私は大学入学で東京に出てきて1週間、総武線と山手線の違いもわからないガキでしたから、どうすればいいか途方に暮れた。そうしたら隣にいた開高さんが「ここに行ってみな」と、銀座にあったデザイン事務所を教えてくれたんです。
訪ねてみると、ピンクのシャツとジーパン、ミッキーマウスの腕時計をしたカッコいい男が出てきて、「わかった。開高さんから話を聞いているからやっとくよ」と。それが和田誠さんでした。以来、私は開高さん、小田さん、和田さんにいろいろお世話になってきましたが、ひとつ自慢しておくと、いまファッションアイテムのひとつとしてどこにでも転がっている缶バッジ、あれを日本で最初につくったのは私です。
今日、いろんな人に「開高さんはなんで途中でベ平連をやめられたんですか」と聞かれました。確かにある日、ふうっと消えていくんですよ。1970年になるかならないか、ちょうど日米安保の改定期を迎えるころでした。
茅ヶ崎市のイベントのために開高さんの作品を読み返していたとき、気がつきました。キーになったのは小説『夏の闇』ですね。それ以前のルポや小説は『ベトナム戦記』も含めて、現実にちょっかい出したり唾をつけたりするような話がいっぱいありますが、『夏の闇』だけは違う。あれは、どうやって自分と現実の折り合いをつけるか、という話。それまでの開高的文学の中締めのような作品です。結局、主人公はヨーロッパでグダグダしたあとで、「明日の朝、十時だ」と、再び戦場に旅立つところで終わっている。
再読、三読してハッとした。当時、世界中を席巻していたサルトルの実存主義――彼が30代はじめに書いた『嘔吐』と開高さんの『夏の闇』、登場人物も時代背景もまったく違うけれども小説構造がそっくりなんです。主人公はどちらも身のまわりの日常に違和感を感じながら、その正体がわからずにグダグダしている。日常の細部は生々しいほどにリアルだけど、存在のすべては偶然の産物だと気がついたところで主人公はアンガージュマン(参加・関与・投企)していく。
開高さんは実存主義に忠実な作家だったと思います。実存主義文学最後の作家だったと言ってもいい。でも、これを書いたのは40代に入ってから、1970年代初頭です。世界中から関与すべき現実がどんどん消え失せ、ベトナム戦争の終わりも見えてきた時代です。確かに『夏の闇』はひとつの決意表明ではあったけれども、年齢的にも、できることは少ないだろうと見定めてしまった開高さんにとっては、関与の不可能性や断念を文学的に再確認するものでもあったのではないか。改めて、私はそう読みました。
ですから、開高さんがベ平連から退いていく際、喧嘩も言い合いも議論も、まったくなかったんです。本当に、消えていくみたいに消えていった。そして、『オーパ!』の世界に入っていく。作家として、自分の小説世界にきわめて忠実にです。それが彼を縛りもしたし、自分の世界を明確にもした。その生き方に、ああ、みごとだったな、と私は感じ入りました。
当日のイベント風景
開宴のあいさつに立つ
永山義高代表理事
直筆原稿版『夏の闇』を
受けとる青島顕氏(左)
献花の前で記念撮影
開高健にまつわる
思い出話に花が咲く
来賓のあいさつに
真剣に耳を傾ける様子
美味しい料理が並んだ
34回目の命日を迎えた
開高健の肖像画
会場は終始
穏やかな雰囲気