開高健 年譜
開高健の人生の軌跡を年譜で振り返ります。
開高健 略年譜(1)
1930年(昭和5)年〜1957年(昭和32)年
同人誌の時代を経て、『パニック』により衝撃的デビュー
1930(昭和5)年
12月30日 大阪市天王寺区東平野町1丁目13番地に生まれる。父正義、母文子の長男。父は大阪市立鷺洲第3小学校訓導。
1937(昭和12)年 【7歳】
4月 大阪市立東平野小学校に入学。
12月 大阪市住吉区北田辺町に転居。
1943(昭和18)年 【13歳】
4月 大阪府立天王寺中学校(現・天王寺高等学校)に入学。
5月 第2鶴橋国民学校教頭であった父が病死。
1944(昭和19)年 【14歳】
校舎は兵営に代用され、授業は停止状態となる。八尾飛行場での雑用、火薬庫造営、国鉄龍華操車場の突放作業などの勤労動員にかり出される。
1948(昭和23)年 【18歳】
4月 旧制大阪高等学校文科甲類に入学。
1949(昭和24)年 【19歳】
4月 学制改革により大阪市立大学法文学部法学科を受験。
6月 入学。文芸部に入部。
1950(昭和25)年 【20歳】
1月 処女作『印象生活』を「市大文芸」に発表。
3月 同人誌「えんぴつ」に加入。
1951(昭和26)年 【21歳】
7月 書き下ろし長編『あかでみあ めらんこりあ』を「えんぴつ」解散記念に刊行。
10月 「文学室」に参加。
1952(昭和27)年 【22歳】
正月前後住吉区杉本町の牧羊子の家へ移る。
7月 長女道子誕生。
11月 「VILLON」に参加。
1953(昭和28)年 【23歳】
2月 洋書輸入商北尾書店に入社。
3月 牧羊子との婚姻届出。
12月 大阪市立大学法学部法学科を卒業。
1954(昭和29)年 【24歳】
2月 寿屋(現・サントリー)に入社、宣伝部員に。
1956(昭和31)年【26歳】
4月 PR誌「洋酒天国」を創刊。編集発行人となる。第22号まで編集長をつとめた。
10月 東京支店へ転勤、杉並区向井町の寿屋社宅に転居。
1957(昭和32)年 【27歳】
8月 『パニック』を「新日本文学」に発表。一躍新人作家として注目される。
10月 『巨人と玩具』を12月『裸の王様』を「文学界」に発表。
開高健 略年譜(2)
1958年(昭和33)年〜1963年(昭和38)年
『裸の王様』で芥川賞を受賞 作家として本格的に始動
1958(昭和33)年 【28歳】
2月 『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞。
3月 『なまけもの』を「文学界」に発表。
5月 寿屋を退職、嘱託となる。
8月 杉並区矢頭町40番地(現杉並区井草4-8-14)に転居。
1959(昭和34)年 【29歳】
4月 過労が原因で急性肝炎になる。
8月 『屋根裏の独白』を中央公論社より刊行。
11月 『日本三文オペラ』を文藝春秋新社より刊行。
1960(昭和35)年 【30歳】
5~7月 中国訪問日本文学代表団の一員として中国を訪れ、茅盾・老舎・陳毅・郭沫若・毛沢東・周恩来らと会見。
9~12月 ルーマニア平和委員会、チェコスロヴァキア作家同盟、ポーランド文化省の招待を受け、それぞれの国に滞在した後、パリを経て帰国。
12月 『ロビンソンの末裔』を中央公論社より刊行。
1961(昭和36)年 【31歳】
4月 『過去と未来の国々』を岩波書店より刊行。
7~9月 アイヒマン裁判の傍聴にイスラエルへ赴き、アテネ、デルフィ、イスタンブール、パリを経て帰国。
10~翌年1月 ソビエト作家同盟の招きで、モスクワ、レニングラード、タシュケント、サマ ルカンドを訪問。エレンブルグと会見。さらに東西ドイツ、パリに滞在、反右翼抗議デモに参加。サルトルと会見。
1962(昭和37)年 【32歳】
2月 『片隅の迷路』を毎日新聞社より刊行。
7~8月 佐治敬三とノルウェー、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、西ドイツの各地の醸造所を視察。
10月 『声の狩人』を岩波書店より刊行。
1963(昭和38)年 【33歳】
7月 バリ島で開催されたアジア・アフリカ作家会議執行委員会に出席。
10月 サントリー嘱託を退職。
10月 『日本人の遊び場』を朝日新聞社より刊行。
開高健 略年譜(3)
1964年(昭和39)年〜1973年(昭和48)年
生死を賭けたルポ『ベトナム戦記』から『輝ける闇』『夏の闇』へ
1964(昭和39)年 【34歳】
5月 『ずばり東京(上)』、12月『ずばり東京(下)』を朝日新聞社より刊行。
11月 朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムへ出発。
1965(昭和40)年 【35歳】
1~3月 『南ヴェトナム報告』を「週刊朝日」に連載。
2月14日 南ベトナム戦地取材のため従軍中、ベトコンに包囲されるが、死地を脱出。24日ベトナムより帰国。
3月 『ベトナム戦 記』を朝日新聞社より刊行。
4月 衆議院外務委員会で特別参考人としてベトナム問題を説明。
5月 “「ベトナムに平和を!」市民文化団体連合”の日本側集会呼びかけ人となり、「ニューヨーク・タイムス」にベトナム戦争反対の広告を載せる企画を提案、11月16日に掲載される。
1966(昭和41)年 【36歳】
10月 サルトルとボーヴォワールを迎えて「ベトナム戦争と平和の原理」の集会に主催者の一人として出席。
1968(昭和43)年 【38歳】
4月 『輝ける闇』を新潮社より刊行し、11月第22回毎日出版文化賞を受賞。
6月 文藝春秋の臨時特派員として、動乱のパリ視察に出発し、東西ドイツ、サイゴンを経て、10月に帰国。
1969(昭和44)年 【39歳】
1月 『青い月曜日』を文藝春秋より、3月『七つの短い小説』を新潮社より、6月『私の釣魚大全』を文藝春秋より刊行。
6~10月 朝日新聞社臨時海外特派員として『フィッシュ・オン』の旅に出発し、ビアフラ戦争、中東戦争を視察して帰国。
1970(昭和45)年 【40歳】
3月 「人間として」の編集同人となる。
6~8月 新潟県北魚沼郡湯之谷村銀山平に籠る。
10月 『人とこの世界』を河出書房新社より刊行。
1971(昭和46)年 【41歳】
2月 『フィッシュ・オン』を朝日新聞社より刊行。
1972(昭和47)年 【42歳】
3月 『夏の闇』を新潮社より刊行、文部大臣賞を打診されたが辞退。
3月 『紙の中の戦争』を文藝春秋より刊行。
1973(昭和48)年 【43歳】
2月 「文藝春秋」「週刊朝日」特派員としてベトナムを訪問、第一次和平調印の直後から第二次和平調印まで150日滞在し、6月に帰国。
8月 『眼ある花々』を中央公論社より、11月『サイゴンの十字架』を文藝春秋より刊行。
開高健 略年譜(4)
1974年(昭和49)年〜1989年(平成元)年
『オーパ!』『耳の物語』など地の果てと書斎を往還した晩年
1974(昭和49)年 【44歳】
3月 『新しい天体』を潮出版社より刊行。
4月 「四畳半襖の下張」裁判に弁護側証人として出廷。
12月 茅ヶ崎市東海岸南のこの地に書斎をかまえる。
1975(昭和50)年 【45歳】
9月 胆石除去の手術を受ける。
1978(昭和53)年 【48歳】
5月 『ロマネ・コンティ・一九三五年』を文藝春秋より刊行。
7月 芥川賞選考委員に加わる。
11月 『オーパ!』を集英社より刊行。
1979(昭和54)年 【49歳】
5月 『最後の晩餐』を文藝春秋より、『歩く影たち』を新潮社より刊行。
6月 『玉砕ける』で第6回川端康成文学賞を受賞。
7月~翌年4月 朝日新聞社とサントリーから派遣され、南北アメリカ大陸縦断旅行。
1981(昭和56)年 【51歳】
9月 『もっと遠く!』『もっと広く!』を朝日新聞社より刊行。
11月 一連のルポルタージュ文学により第29回菊池寛賞を受賞。
1982(昭和57)年 【52歳】
バック・ペインを病み、水泳教室に通う。
6~7月 『オーパ、オーパ!!』の取材に、ベーリング海へオヒョウ釣り旅行。
1983(昭和58)年 【53歳】
4月 『オーパ、オーパ!!海よ、巨大な怪物よ』を集英社より刊行。
1984(昭和59)年 【54歳】
7月 アラスカのキーナイ河で60ポンドのキング・サーモンを釣る。イリアムナ湖のロッジに招待され、カリブー(トナカイ)猟に行く。
10月 『生物としての静物』を集英社より刊行。
1986(昭和61)年 【56歳】
6月 宝石の取材のためスリランカへ、7~8月モンゴルへイトウ釣りに行く。
8月 『耳の物語』(全2冊)を新潮社より刊行、翌年6月、第19回日本文学大賞を受賞。
1987(昭和62)年 【57歳】
5月 再びモンゴルへイトウ釣りに行く。
1988(昭和63)年 【58歳】
6月 『一日』を「新潮」に発表。
1989(昭和64・平成元)年 【享年58歳】
3月 食道狭窄で茅ヶ崎市内の病院に入院。間もなく済生会中央病院に転院し、4月手術を受ける。7月末退院。
10月 『珠玉』第三部を脱稿、翌年文藝春秋より刊行。
12月9日 食道腫瘍に肺炎を併発し逝く。北鎌倉・円覚寺松嶺院に眠る。