記念文庫だより

開高健記念文庫からのお知らせや図書係のお便りをお届けします。

2021/5/26 文庫通信(6)ベトナム特派員後の3年

 開高は1965年2月にベトナムから帰国した。翌3月、週刊朝日に連載していた特派員ルポをまとめ上げ『ベトナム戦記』として発表した。サイゴンでの様々な出来事や農村の様子、前哨キャンプでの体験などを、読者の眼に見えるように書いた。ルポの「たてつけ」だが、ところどころ小説家開高が前面に現れる。例えば、サイゴンでの少年の公開銃殺刑のあとの次の文章。

 

 私は軍用トラックのかげに佇む安全な第三者であった。機械のごとく憲兵たちは並び、膝を折り、引金をひいて去った。子供は殺されねばならないようにして殺された。私は目撃者にすぎず、特権者であった。私を圧倒した説明しがたいなにものかはこの儀式化された蛮行を佇んで《見る》よりほかない立場から生まれたのだ。安堵が私を粉砕したのだ。私の感じたものが《危機》であるとすると、それは安堵から生まれたのだ。広場ではすべてが静止していた。すべてが薄明のなかに静止し、濃縮され、運動といってはただ眼をみはって《見る》ことだけであった。単純さに私は耐えられず、砕かれた。

 

 後半、ジャングルの前哨キャンプに行ってからは、直接体験の度合いが強まった分、小説家開高が頻繁に現れてくる。前哨キャンプでの平穏がしばらく続いた後、そこの部隊がジャングルに分け入って大がかりな作戦行動を起こすことになる。そうなれば特派員の開高も同行する以外にない。開高の不安は高まり、怯懦に襲われる。危険な作戦行動計画がいよいよとなった時のことを次のように書いている。

 

 (・・・・いまだ)

 私は少佐を追って酒保へいき、はずかしそうに笑いながら頭をかいて、小声で、作戦はやめました、おとなしく明日サイゴンに帰ります、MACVに連絡をとって頂けないでしょうかと、うちあけようと思った。少佐は私を鄭重になぐさめ、その場で通信兵に命令を下してくれるだろう。いまだ、いまだ、いまのうちにたちあがって口をひらけばよいのだ。つめたい汗がにじんできた。けれど、何故か、何となく、ベッドにたおれたまま私はいつものようにぐずぐずして、たちあがろうとしなかった。

 

 『ベトナム戦記』はルポで『輝ける闇』とは文体も視点も異なる。両者を対比し、違いを認める見方が多いが、以上2ヶ所は完全に「文学」である。両者に共通の底流があって、それが広がり深まって『輝ける闇』となった点にむしろ着目すべきではないか。

 

 開高は、ベトナム派遣と相前後して初めての自伝的小説『青い月曜日』を書いた。『青い月曜日』は文学界の1965年1月号から2年以上にわたって連載された。ベトナム派遣は1964年11月から1965年2月であり、『青い月曜日』の原稿の一部はさきがけて用意された。しかし、ベトナム行きで中断し、大半は帰国してから書き継いで完成した。ベトナム戦争を潜り抜けて帰国した開高の眼には、自身の過去もが違って見えた。『青い月曜日』のあとがきに「連載中に私は或るしたたかな経験に遭遇することがあり、そのため音楽が変ってしまい、書きつぐことが苦痛となり」とある。ベトナム体験が開高の眼を深く鋭くしたことが想像される。
 『青い月曜日』は感傷や美化を削ぎ落として書かれた。戦時・戦後の苦しい、悲惨で滑稽でもある過去を掘り起こし、どういう成り立ちで自分が形成されて来たのか、自分は何者なのかを、徹底して掘り下げている。自己凝視を深める作業は『輝ける闇』にとりかかる直前まで続いていたのである。

 それから1年、開高は『輝ける闇』を執筆し1968年4月、書き下ろし小説として発表した。『輝ける闇』はベトナム戦争を見る自分を見つめる眼で書かれている。ところどころに『青い月曜日』の「私」が現出する。戦時中の勤労動員の時に中学生だった「私」が米軍機から機銃掃射を受け逃げ回ったことや、鉄骨や残骸でささくれだった一面の焼け跡に落ちる夕陽が、ベトナムの地平とつながって書き込まれている。

 

 ベトナムから戻ってからの3年間、開高は、どうありたいのか、どのように生きるべきかについて、思いを固めていったように思える。
 『ベトナム戦記』の「巻き込まれたくない、危険を避けたい」と願う特派員は、「サイゴンに戻りたい」と言い出せなかったばかりに作戦行動に同行し、ベトコンの襲撃を受けて危うく死にかける。

 が、『輝ける闇』では、サイゴンの混沌をへめぐった果てに、「私」は自らジャングルの部隊に戻り作戦行動に加わる決心をする。最後の晩を素蛾(トーガ)と過ごした「私」は早朝、素蛾に告げずひとり戦地に赴く。その時「わたしのための戦争だ」と自らを奮い立たせている。ここには、己が生命の発揚のため、進んで危険に身を投じる「私」がいる。

 

 『ベトナム戦記』から『輝ける闇』への3年間に起こった開高のこの心の変化は、さらに『夏の闇』のテーマにもつながっていくのである。

 

引用文献

『ベトナム戦記』1965年3月、開高健、朝日新聞社

『青い月曜日』1969年1月、開高健、文芸春秋

『輝ける闇』1968年4月、開高健、新潮社



文:平松信実(開高健記念文庫)

2021/3/28 文庫通信(5)『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』 

 『輝ける闇』を初めて読んだときの不思議な印象を忘れることができない。

 一つは、池に棲む巨大な神魚を退治するため、アメリカの軍事顧問ひきいる部隊が池を機銃掃射し、ダイナマイトで爆破するところ。

 ベトナムには体長1~5m、背が黒く腹の黄色い神魚がいて空を飛ぶ。空を飛んで池から池へと移り棲むが、神魚が降りたった池の水は奇跡の水になる。その水を浴びたり飲んだりすると、難病が治り障害が消えると信じられている。それでたくさんの人々が池の水を汲みに集まって来る。南ベトナム政府は民衆の迷信を打ち壊すため、アメリカの軍事顧問に神魚退治を要請する。ウェイン大尉というアメリカ将校が、軍務としてベトナム兵をひきいて神魚掃討作戦の指揮をとる。池への機銃掃射を命じ、爆破を命ずる。池は煮えくりかえり、おびただしい魚が白い腹を見せて浮いてくる。が、神魚の死体は浮いてこない。

 この話はいったい何なのか?「寓話」なのか?

 

 もう一つは、ジャングルの中の前哨キャンプにいる特派員の「私」がマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』を読み耽るところ。

 『輝ける闇』は冒頭「夕方、ベッドの中で本を読んでいると、ウェイン大尉が全裸で小屋に入って来た」と始まる。「私」は大尉と一緒に隣のアメリカ将校の宿舎に行く。そこは立派で食事も良い。一方、ベトナム政府軍兵士の宿舎はボロで食事も貧しい。ふたつの宿舎の間には鉄条網が張ってある。ベトコンと通じた政府軍兵士に襲われないためだ。前哨キャンプは、まわりの繁みから夜間に銃撃を受けたこともある。それでアメリカ軍の将校はいつもベッドの脇に武器を置いて寝る。
 「私はシャワーを浴びたあと、ベッドにころがって、マーク・トウェインのつづきを読みにかかった。」そこへウェイン大尉が自動銃をさげて入って来て、彼との話が始まる。その会話の中に、2ヶ月前ウェイン大尉が指揮をとった神魚掃討作戦が回想話として嵌め込まれている。

 ジープで国道沿いの雑貨店に買い出しに行く話(店主がベトコンと通じているとの噂あり狙撃される危険がある)、村を巡回し武器を隠していないか一軒一軒調べてまわる話、初めてさわったカービン銃で遠くの人影に狙いをつけてみる話、塹壕でバクチをしていたベトナム兵が殴打される話等々があって、「私は小屋にもどり、マーク・トウェインの空想小説の最後の一章を読み上げた。このとっぴな物語に私はとらえられている。」とここで初めて作者名を明かし、物語の内容を長々と書き綴る。

 マーク・トウェインの時代の工場長が頭を打って気が付くと6世紀のイギリス、アーサー王時代にタイム・スリップしていた。ヤンキーの眼に映ったアーサー王時代は愚昧・滑稽・残酷そのもので、ヤンキーは火薬や電気を使って社会の大改革に挑む。魔法使いマーリンや円卓の騎士とたたかって打ち負かし、アーサー王を教え諭す。が、教会に敵視され、最後は国中を相手に戦う。向かって来る3万の騎士をダイナマイトで吹き飛ばし、高圧電流を流した鉄条網で感電死させて勝利をおさめるが、自らも深手を負って死んでしまう。

 途方もない物語である。が、「私」は、この物語がすべてを予見していた、ことごとく言い当てていたとうなる。この物語を読み終えて、自分に付け加えられることは何一つ無いのではないかとも言う。

 

 『輝ける闇』の導入部は、かように異質の物語が縫い合わされている。初めて読んだ時は、手品に目をこすっているうちに、小説世界に引き込まれていった。導入部はこの小説に深い立体感を与える仕掛けと思った。

 今の感じ方は少し違う。特派員の「私」にはベトナムの現実がどこか非現実な世界の出来事のように感じられる。一方、非現実な二つの物語に妙な現実感をいだく。

 私は、若い頃読んで感銘を受けたコーリン・ウィルソンの『アウトサイダー』を思い出した。コーリン・ウィルソンはこの著作の中で、現実に対して「非現実感」しか持ち得ぬアウトサイダーの自己とその疎外こそが近現代文学の中心テーマだとして、そうした作家の系譜を明らかにした。

 バルビュスの『地獄』の壁の裏側の視姦者がそうであり、戦争体験で失われたヘミングウェーがそうである。ヘミングウェーは郷里に戻っても現実感を取り戻すことができない。カミュやサルトルにいたっては人間存在そのものが現実から疎外されている。カフカは夢の形式を借りて「非現実感」を強く表出した。

 
 「アウトサイダー」は自分が何ものであるか確信がない。たしかに一つの「われ」を見つけはしたが、それは真の「われ」ではない。彼の主な仕事は、自分自身への還(かえ)り道を見い出すことだ。(『アウトサイダー』)

 

 開高もまた、自分自身への還(かえ)り道を見つけようとしていたのではないだろうか。


引用文献

『輝ける闇』1968年、開高健著、新潮社

『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』1889年、マーク・トウェイン著

『アウトサイダー』1956年、コーリン・ウィルソン著


文:平松信実(開高健記念文庫)

2021/2/26 文庫通信(4)旧制天王寺中学

 1943年(昭和18年)4月、12歳の開高は大阪府立天王寺中学(5年制)に入学した。入学試験の成績順に級長が決められる慣行で、開高のクラスの級長は作花済夫(さっかすみお)氏(後に京都大学教授、ガラスの物性に関する世界的権威)、副級長が開高だった。天王寺中学は北野中学と並ぶ大阪府下きってのトップ校であり、同期生仲間はその後各界で活躍した。

 同窓会誌に作花氏が次のような文章を寄せている。

 

 入学後第一回の中間試験が終ったある日、何のためか忘れたが、教室の前の廊下に並んでいると受け持ちの藤原先生が、背が低くて前の方に集まっている開高健、小出鐸男両君と私の肩をたたいて、「ようできとった」といってにっこりされた。藤原先生の数学の試験が満点だったそうだ。

 

 その開高君のお父上が間もなく亡くなられてショックを受けたが、藤原先生と北田辺のお宅を訪ねたことを覚えている。(『天中五十期生20号』)

 

 開高の中学時代、教室で勉強したのは1~2年だけだった。3年生になると勤労動員が本格化した。大阪南郊の龍華鉄道操車場での体験は『青い月曜日』『耳の物語』に詳しく書かれている。終戦の1945年9月(開高14歳)には授業が再開されたが、その頃のことを開高は『頁の背後』に次のように書いた。

 

 敗戦後、私は学校へいくのがイヤになった。私の家は父がとっくに亡くなっているし、田舎の田畑は農地解放令で蒸発し、銀行預金や有価証券は枯葉同然となり、戦時中の物々交換でタンスはからっぽになっている。(中略)

 焼跡や闇市をあてもなくほっつき歩いたり、友人の家を泊り歩いたりしていたが、どんなひどい時代でも中学生の生活の感情の大半は学校にあるのだから、教室に顔を出さない中学生がいつまでも友人たちとうまくやっていくことはできない。次第に私は友人たちとも疎遠になり、顔をあわせることをさけるようになり、噂を聞くだけになり、それもつぎつぎ稀釈されていくばかりであった。

 

 開高が中学を卒業したのは1948年3月(開高17歳)だったが、中学の後半は、一家が生き延びるためのアルバイトを手あたり次第にやって、学校への足は遠のいていた。

 

 旧制天王寺中学50期生は1957年になって同窓会誌を発行し始めた。開高が芥川賞を受賞した1958年には、同窓生で万年筆を贈っており、開高は御礼の文章を、同年発行の同窓会誌2号に寄せている。

 

 いつぞやは芥川賞の記念にといって同窓会の名前で万年筆を贈ってもらいました。たいへんありがとう。紙上をかりてお礼いいます。芥川賞には時計がつきます。〆切日をよく守れということでしょうか。この時計はロンジンですが、あまり正確ではありません。ときどきおくれたり、とまったりしてあわてることがあります。持主の性格によるのでありましょう。万年筆の方は健在で、日夜、たいへん重宝しています。

 作花君が“どんな奴がええのや”と聞くから、“原稿がどんどん書けて金の儲かるような奴や”といいましたら、ペン先の太いのを送ってくれました。これならチビルことはありません。安心して書けます。(『天中五十期生2号』)

 

 開高は、忙しさ半分、気恥ずかしさ半分で同窓生仲間と広く付き合うことはなかった。そうした中、作花氏は開高が講演先の名古屋で泊まったホテルを訪ね、二十数年ぶりに再会した。その後には、開高宅を訪問されたこともあったようだ。

 作花氏が1988年11月発行の『天中五十期生 30号』に書いている。

 

 五十期生は毎年初夏に大阪、秋に東京で同窓会を開く。常連の諸君にまじって珍しい友人が、必ずといってよいほど顔をみせるのは、六十に近づいた年齢のせいだろうか。

 先ごろも作家の開高健君が、野放図に太った姿を現し、胴間声をはりあげ、一刻を元気に飲み、かつしゃべって帰った。

 

 開高の同窓会初参加は晩年近い1988年(開高57歳)の秋だったと思われる。

じつに長い年月が流れていた。

 

引用文献

『頁の背後』1973~1974年、開高健全作品、新潮社

『天中五十期生 2号』1958年

『天中五十期生 20号』1978年

『天中五十期生 30号』1988年


文:平松信実(開高健記念文庫)

2021/2/1 図書係のつぶやき

『オーパ! 完全復刻版』の見本が届いた。すごい ─。

最初この復刻のはなしを聞いたときは耳をうたがった。でも、完全復刻、いまの写真製版技術で全ページすみずみまで造りなおす、と。版元は本気だった。

完全によみがえっている。高橋曻(カメラマン)が命をはったポジ1枚1枚が、眼をぬぐったみたいに鮮明になっている。それらの「窓」をぬけて、開高健の原色のアマゾン世界にとびこんでいける。

付録の特別冊子も、「オーパ!」メイキングドキュメントあり、特別寄稿あり、なつかしい対談あり、読める年譜あり(集英社刊)。

値段のことは言うまい。版元ががんばったことだけはたしかだ。写真のわきにひかえおる私のヨサレ本4冊分でこの函入り大型写真本が買える。後悔はさせません。

※写真は都内、池袋三省堂の店頭


文:菊池治男(開高健記念会)

2021/1/21 図書係のつぶやき

「新人のころ出会った文章のプロ、ふたり─。」

新入社員として配属された男性週刊誌には伝説のアンカーマンがいた。かれは長らく国民的芸能週刊誌のメインアンカーをしながら、請われてその男性誌にもかかわっていた。アンカーはわれわれ記者やデータマンが集めてくるコメントやデータを1本の記事にリライトするのが役目だが、そのひとの並はずれていたのは、ほぼどんなデータ原稿も、記事というより「読み物」に仕上げてみせるところ。(どうやってもモノにならない取材だったばあい、黙ってデータ原稿をやぶりすてて姿を消すといううわさもあった)。

海軍士官学校で終戦、東大の独文をでて出版界、という経歴のニヒルなインテリにみえたが、ややこしい話題もエロいネタもみごとに仕上げてくれる。われわれ若いデータマンは、じぶんが取材したネタがどんな「読み物」に変身するか、毎号固唾をのむようにしてあがりを待った。

読むためにお金をはらってくれる読者がいる原稿、つまり「読み物」。それはわれわれにとって最高の賛辞だったし目標だった。

そんな新人雑誌記者が出会ったもうひとりの文章のプロ、プロ中のプロが、開高健。

昨日『開高健とオーパ!を歩く 増補新版』の見本がとどいた。11月に出た『開高健は何をどう読み血肉としたか』とともに来週書店にならぶ(ともに河出書房新社刊)。どちらも「開高健の作品や文章を読んでくれ!」という思いをつらねているうちにまとまった本。前著旧版が出たさい、ある新聞が「単なる楽屋話の枠を越えた類例のない読み物に仕上がっている。」と書いてくれうれしかったのをおもいだす。

そう、目指していたのは楽屋話でもない、自慢話でもない、評論でも研究でも解説でももちろんない──まさに読み物。成功しているかどうかは別として。



文:菊池治男(開高健記念会)

2021/1/21 文庫通信(3)『巨人と玩具』創作秘話

 1957年(昭和32年)、26歳の開高は壽屋(現サントリー)の宣伝の仕事に明け暮れていた。毎日が忙しく、作家になりたいという夢は埋没しかけていた。そんな或る日のことを開高は『頁の背後』に書いている。

 

 数年間こうしてウィスキー瓶のなかでボウフラのように浮いたり沈んだりして暮らしていたが、あるとき新聞で科学者がササの結実の周期とネズミの大発生のことを書いているのを読んだ。おそらくその文章が光っていたのだろうと思いたいが、宿酔でぬかるみのようになった脳の表皮にザックリと切り込まれるのを感じた。何か書けそうだと思い、書きたいと感じた。それまで私は《えんぴつ》にも《近代文学》にもデッサンとしての習作しか書いていないし、それも止めてから久しくなるので、ここではじめて書くようなものだった。原稿用紙を買いこむと、社宅の小さな床の間にカーテンをつり、そのなかに机とスタンドを持ちこんで、毎夜ネズミの生態を書いた本を読み、そうしながら物語の細部を考えたり、修正したり、遠くから眺めたり、接近して顔を埋めて眺めたりした。

 

 開高の文壇デビュー作『パニック』が、数十年毎に一斉に花を咲かせ実をつけるササにシンクロして大量発生するネズミの記事に触発されて書かれたことは、ひろく知られている。『新日本文学』の8月号に掲載されるや、開高は一躍注目を浴びた。

 開高の勢いは止まらない。『文學界』10月号に『巨人と玩具』を、『文學界』12月号に『裸の王様』を発表して、翌1958年2月に芥川賞を受賞した。

 

 私小説を嫌い、フィクションを構築しようとした開高は、創作のヒントを探し求めていた。芥川賞受賞作の『裸の王様』については、壽屋宣伝部の同僚だった坂根進氏が、その創作のヒントをもたした。氏がその顛末を後に語っている。

 

 「オッチャン、ネタが一つあるデ」「ナンヤ」「俺が昔、アンデルセン百年祭の記念行事を手伝ったときに、裸の王様を日本の子供に描かせたら、フンドシ姿の殿様を描いた子がいた。こいつはいい!というんでデンマークへ送ったがどうなったかナ」「オイ、ちょっと面白そうやナ、もうちょっとくわしく聞かせ!」(「その頃」『これぞ、開高健。』)

 

 これはある程度知られている話である。しかし、『巨人と玩具』創作のヒントに

ついてはほとんど知られて来なかった。
 じつは、森永製菓の広告部にいた小宮淳一氏が著書『アドマン春秋』の中でその

裏話を書いている。

 この本には、昭和30年代前半、製菓会社の主力製品がキャラメルだったこと、

森永の広告部は時代の最先端を行っており、当時広告制作に力を入れ始めた電通や

博報堂に森永広告部の人材がスカウトされていったことなどが書かれていて面白

い。その森永広告部が発起人となって、森永・壽屋・味の素の3社からなる研究会

がつくられた。

 

 その中に、色黒でやせぎす、精悍な感じの青年がいた。壽屋でPR誌を編集していると言い、飲むほどに自ら持参したウクレレを弾きながら、

「俺は村中で一番、モボだ~ト言われたおとこ~」

と、エノケンの歌を歌い出した。開高健である。

その時点(昭和32年)で、作家としての開高健はまったくの無名だった。

 

 酒を飲んで意気投合した勢いで、森永が秘密裏に計画していた子ども向けキャ

ンペーンの内容を話してしまい、開高はそれをネタに『巨人と玩具』を書いた。

 

 「サムソン製菓」は森永製菓、「アポロ製菓」と「ヘラクレス製菓」は明治製菓、江崎グリコの想定であるが、小説の中の各社キャンペーンは架空に近いものである。ただ森永=サムソン製菓の「ロケット懸賞」(宇宙帽、ロケット銃の当たる懸賞)だけは、そのものズバリの事実に近いことが描写されている。(中略)

 ロケット銃はプラスチックで作った宇宙光線銃のようなもので、中にキャラメルの粒を装填し、引き金を引くとキャラメルがポンと飛びだすおもちゃで、なかなか良く出来ていた。

 

 『巨人と玩具』は1958年に大映で映画化された。開高健記念文庫にDVDがあり、映画に使われた宇宙帽とロケット銃を見ることができる。

 

引用文献

『頁の背後』1973~1974年、開高健全作品 新潮社

「その頃」『これぞ、開高健。』1978年、『面白半分』臨時増刊号

『アドマン春秋』2003年、小宮淳一著、日経PB企画


文:平松信実(開高健記念文庫)

2021/1/17 図書係のつぶやき

「開高健The Yearはつづく ─ 関連本にも動きが。」

開高健生誕90年記念として43年ぶりに完全復刻される単行本『オーパ!』──大型アマゾンフィッシング紀行の刊行がいよいよ来週にせまりました(1月26日 集英社刊)。

関連したYouTubeのオンラインイベントもありましたが(12月5日現在YouTube上にも)、関連本にも動きがあります。『開高健は何をどう読み血肉としたか』(河出書房新社刊)の書評類も出始めました(下記は産経新聞2021.01.10の読書欄)。

https://www.sankei.com/.../news/210110/lif2101100007-n1.html

また、新著オビで藤原新也さんが「作者は前作「オーパ!」同行記で開高の身体を解剖し……」と衝撃の推薦をしてくれた前作『開高健とオーパ!を歩く』の「増補新版」が同時期に出ることになりました(河出書房新社)。旧版にも新著にも書き切れなかった忘れがたいエピソードを新章として書き加え、カバー写真など造りも一新したものです。

圧倒的存在感の上記『オーパ!』完全復刻版のちかくにこれらも並べてもらえたらと願っているところです。


文:菊池治男(開高健記念会)

2020/12/28 図書係のつぶやき

「先日のオンラインイベントの字幕訂正と追加エピソード」

先日のオンラインイベントの字幕の訂正と追加エピソード──。

12月5日YouTubeでライブ配信された

「開高健『オーパ!』に学ぶ、コロナ時代の旅のカタチ」(集英社主催イベント)


は私の発声に問題があるため字幕をつけてもらいましたが、いくつか訂正を。

・開始から0:19:40あたり 「開高さんは本当はふるえ……」→「醍醐さんは本当は……」

・0:44:00あたり 「あんなのまずボイルで」→「あんなナマズもいるな、とか」

・1:45:00あたり 開高健の没歳は「58歳と1カ月」→「58歳と11カ月」

・1:46:00あたり キャパの「『ちょっとピンボケ』という視点」→「……という自伝」

*なお冒頭08:30あたりに「パンタナルは日本の20何倍の広さ」とあるのは「1.5倍」の誤り、日本の20数倍あるのはブラジル全土のことでした。

配信分から漏れていたが登壇者からリクエストがあった失敗談を、過去に書いた文章から以下に──。(haruo kikuchi 写真は単行本『オーパ!』撮影・高橋曻 より)

 *

「それはな、狩猟用語でいうと、犬が落ちた、ゆうのんや」

苦笑いしながらたしなめられたのは、ブラジルのパンタナル湿原でサケに似た名魚・ドラドを狙っていたときのこと。小説家の竿にやっと待ちに待ったドラドが来た! まさにその瞬間に、別のボートでカメラマンと一緒にいた私の竿にも何か大きなものが引っかかってしまった。「ピンタード」、現地のガイド君がぼそっと言う。そいつは1メートルを超える大きなナマズだった。ドラドと小説家の格闘の決定的写真を撮るためにはもっと接近しなければならないのに、ナマズはボートごと我々を引っ張って河の中央へ逃げようとする。「ばらせ! 糸を切れ! 竿を捨てろ!」カメラマンの怒るまいことか。ところがボートを操っているガイド君に「わざとばらす」という観念はない。呆然としている私をよそに、糸をつかんで悠々と魚を取り込んだ。その間の長かったこと。ドラドが小説家のボートにジャンプして飛び込む一連の写真のこちらには、私の余計な竿の一振りが招いた、猟犬が途中で獲物をいただいてしまうに似た事態があった。(開高健『一言半句の戦場』への寄稿)

文:菊池治男(開高健記念会)

2020/12/1 図書係のつぶやき「円覚寺のお墓に報告」

新著の見本をもって円覚寺のお墓に報告にいってきました。

開高さんのお墓にたむける花をえらぶとき、どうしても入れたくなるのがオンシジウムという南国の花。ラン科にしては小ぶりの黄色い花がいくつも咲きます。

開高さんとの旅「宝石の歌」の取材のさいスリランカの古都の名をとって「キャンディ・ダンス」と呼ばれていることを教えられました。ランの特徴は花弁のひとつがおおきいところですが、ひろがった美しい花弁がダンサーのスカートのようにみえるのです。そうおもうと残りの花弁や蕊が踊り手の上半身にみえてくる。明るいふんいきの花なので開高さんの墓前にはいいかなと勝手におもって、毎回そなえてくるのです(写真左右にみえる黄色いのがオンシジウム)。

開高さんと高橋さん(オーパ!カメラマン おなじ円覚寺の読燈庵に眠る)の墓前に報告したのは、先週発売になった『開高健は何をどう読み血肉としたか』(河出書房新社)。東京・杉並の「開高健記念文庫」に所蔵されている、開高さんが最晩年まで身近に置いていた蔵書のうち11冊とそこにのこされた独特の「折り込み」について、図書係としてあれこれ、開高さんとの旅の記憶といっしょに書いたものです。キャンディ・ダンス=オンシジウムのことは書けなかったけれど、そのことを教えてくれた開高健の年若い友人のスリランカ人宝石商についてはちょっとふれました。

文:菊池治男(開高健記念会)

2020/11/26 図書係のつぶやき「第18回開高健ノンフィクション賞贈賞式」

「トリッキイ」な登山家の死に感じた「なぜ?」を追う 

集英社出版四賞2020の贈賞式にいきました。例年とちがってことしは贈賞式のみ。関係者、報道人だけの出席となりました。

ことしで「開高健ノンフィクション賞」も第18回。毎回受賞作を出しつづけ、ベストセラーや大宅賞などの受賞作、話題作を生んできた、いまやノンフィクション作家の登竜門としてすっかり定着。賞の裏方のたいへんさを多少とも知る者としては、運営側の営為をもいっしょにたたえたいきもちです。

こんかいの受賞作は河野啓著『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』。手指を凍傷で九本うしなった身でなお、あえぎながらエベレストをのぼる自撮り画像をネットでながして人気を博した「小動物を思わせる笑顔」(著者)の登山家。いちどはテレビドキュメンタリー制作側として交流し、断絶したかつての取材対象の遭難死に呆然とした著者が、その死に感じた「なぜ?」を追って取材をかさねる。著者の河野氏はあいさつのなかで、死後にかれを取材し直し、最後の最後にあらためてかれを好きになれた、と語りました。

選考委員の講評には辛口の意見もあったようですが、受賞がきまってからの編集者との作品ブラッシュアップはこの賞の特徴であり、刊行作は読みごたえじゅうぶんの仕上がりです。『デス・ゾーン』は集英社から11月26日刊。 

文:菊池治男(開高健記念会)

2020/11/8 図書係のつぶやき「最晩年まで机上に置いてあった蔵書たち」

東京・杉並にある「開高健記念文庫」はこの11月で開館から丸3年をむかえます。

その一角に、開高健が最晩年まで書斎の机のうえにおいていた蔵書(ほとんどがベトナム関係のものです)の再現をめざすコーナーができました。茅ケ崎の「開高健記念館」書斎の蔵書の副本をあつめています。希代の読書家だった開高が最後まで身近においた本(と同じもの)が手にとれるとおもうとなんかわくわくしてしまいます。

 文庫開設のさいかかわった「図書係」のひとりとして、開高蔵書の魅力をその一端でも紹介したいとずっとおもってきました。で、たとえば新コーナーのなかの1冊、あるひとへ送った感想メールを再録させてください。

 ***

『女ひとりヴェトナムを行く』は1965年7月に講談社から出た新書サイズの本です。HOW TO BOOKSと銘打った薄い本なので、すぐ読めるのですが、これがなかなか。

リードには「あえて女の目で見たと注釈をつけて」書いた、とあり、著者はラジオ関東報道局の当時30代前半(開高の数歳下)の平松昌子という人。開高健(65年2月帰国)と入れ違いぐらいにベトナムに入っています。

3週間のベトナムでの見聞を記事風にまとめてあります。ヘリで前線へ日帰りしたほかは、市場へ行ったり、大学を訪ねたり、農村で学生ボランティアと議論したり、といった取材の様子が書かれています。サイゴンの広場に建てられた少女の胸像(1963年ゴ・ジン・ジェム政権を倒したさいの英雄のひとりとされる、政権側に殺された女子高生)の母親にインタビューし、

「娘の像ができたとき、娘の死は無駄ではなかった、と自分にいってきかせ、名誉あることなんだと考えました。しかし、その後、クー=デターがあるたびに、ひじょうに恐れを感じるようになりました。娘が、あの台からひきずりおろされ、こなごなになるのではないかと思ってなのです。もしそうなったら、娘があまりにかわいそうです。」

という胸のつまるような言葉を引き出しています。女らしい目線とはいわないですが、変にマッチョじゃないところがいい。当時こうした報道はめずらしかったのか? なぜ開高健がこの本を最後まで机上に置いていたのか?

本の終りのほうに、政府軍に捕まっている少年捕虜にインタビューする場面があります。事前に彼女(著者)は当局者から、

「何をたずねてもよいが、彼らを苦しませるようなことだけはきかないでやってほしい」

と釘をさされる。この「彼らを苦しませるようなこと」というのを、記者は「それは将来についてたずねることだ」と悟る。いつ処刑されるかわからない身であり、少年はそれを知っているから。

通訳として同行したベトナム人学生とベトコン少年のやりとりも胸がつまります。自分は許されないだろうが、もし死ななかったら、あなたのような大学生になりたい──。開高健『ベトナム戦記』の「ベトコン少年、暁に死す」の少年の「前夜」を見る思いです。


文:菊池治男(開高健記念会)

2020/11/1 文庫通信(2)「開高健のアウシュビッツ」

  ここ数ヶ月、散策と読書の時間がふえた。コロナウィルスによる外出自粛のお蔭である。時間があるにまかせ、昔読んだ本を再び手にとって見かえすこともあった。

 『過去と未来の国々』もそのひとつである。30歳の開高が60年前の中国・東欧を旅するルポだが、タイムマシンに乗って当時の現場に行くおもむきがあって、今読むとかえって新鮮である。

 60年前、すなわち1960年の中国は建国11年目、“社会主義建設の熱”にあふれ、はばからず言えば“集団ヒステリー”に近い状況であったことがわかる。

 

 東欧はルーマニア・チェコスロバキア・ポーランドの3ヶ国を訪問した。ルーマニアでは集団農場化が進行していた。開高はルーマニアに安定と沈滞を感じつつも、街の様子や人々を活き活きとのびやかに書いている。チェコはもう寒くなりかけて、夕暮れになると石畳の街を濃い霧がつつんだ。スロバキア地方の野や森に野兎、狐、鹿を見たが、ナチスによって村民全員が集団銃殺された村に連れていかれ、またパルチザンの虐殺死体を焼却した製鉄所の溶鉱炉を見たりもした。

 鉄道でポーランドのワルシャワに着いたのは、1960年の11月1日だった。

 

 開高は東欧ルポをもとに『“夜と霧”の爪跡を行く』『森と骨と人達』などの評論や短篇小説をあいついで発表した。『森と骨と人達』にワルシャワ初日の様子が書かれている。

 

 その日は『死者の日』だった。カトリックのウラ盆のようなものではないかと思う。町は静かに荒廃と優雅のなかで仮死をまどろんでいた。商店は戸をしめ、飾窓には鉄網がおりて錠がぶらさがっている。ひっそりした壁のなかを、ときどき人影がうごいてゆく。厚い雲の裂けめから陽が射すと、あたりが水底の世界のように輝いたり、翳ったりした。画廊のように小さな飾窓がならんでいるのを一つ一つのぞいていった。美術書。猟銃。琥珀の首飾り。靴。地球儀。どうしたことか、一軒の店の窓には金魚鉢ほどのガラス鉢がおいてあった。金髪の少女がのびあがり、鼻を窓におしつけていっしんにのぞきこんでいた。何だろうと思って、見ると、それはガラス鉢のなかで一匹の小さな蛇が眠っているのだった。少女はちらと私の顔をみたが、そのまま顔を、また窓におしつけた。私は微笑し、なんとなく、今日は大丈夫だ、安心していいと思った。

 

 しかし、開高がその狭い街路を抜けると、舗道に、かぼそい、透明な火をともしたグラスが幾つもならべられ、街のあちこちの壁に刻まれたワルシャワ蜂起の犠牲者の名前のまわりに人々が集まって死者を悼んでいた。その場に倒れふし、舗道を爪でかきむしりながら泣いている老婆もいた。

 

 開高はアウシュビッツとビルケナウを訪問した。そこで見たすべてを開高は書きつくそうとしている。収容所と監視塔、高圧電流を流した金網の柵、銃殺の弾痕が残る煉瓦壁、ガス室、死体焼却工場、地下拷問室、髪・義足・眼鏡の山などを、これでもか、これでもかと書いている。

 ここでは、『“夜と霧”の爪跡を行く』のなかから一部を引用するに留める。

 

 水はにごって黄いろく、底は見透かすすべもないが、日光の射している部分は水面がいちめんに貝ガラを散りばめたように真っ白になり、それが冬陽のなかでキラキラ輝いていた。いうまでもなかった。その白いものはすべて人間の骨の破片であった。ほかの焼却穴はすべて埋められ、あたりは草むらとなって、何食わぬ顔で日光を受けていたが、その草むらの土を靴さきでほじると、たちまち骨の破片がぞくぞくあらわれてきた。目をちかづけて見ると、ほとんど、骨のなかに土がまじっているというぐらいに骨片が散乱していた。

 

 自分の眼で見たい、それが開高の一貫した姿勢だった。社会主義建設の現場を自分の眼で見てまわった。開高はまた、作家として人間存在の極限を見たいとつねづね考えていた。「作家は現世の地獄を描き、醜悪を描く。ギリギリの、ドンづまりの、ガク然とする、虚無の極北の、解体の無限の、鬼の眼の、もっぱらその、描き得て凄惨の形相である、といわれるようなところのものを描いてほめられなければいけないのである。」(『森と骨と人達』)

 
 開高の決意は固かった。


引用文献

『過去と未来の国々』1961年、岩波書店

『“夜と霧”の爪跡を行く』1961年、文芸春秋、『言葉の落葉』収録

『森と骨と人達』1962年、新潮、『七つの短い短篇』収録



文:平松信実(開高健記念文庫)

2020/11/1 文庫通信(1)「江藤淳と開高健」

 開高ファンから『江藤淳著作集2作家論集』」を寄贈いただき、読む機会があった。その中に、開高健、石原慎太郎、大江健三郎の初期の作品に対する江藤評がのっている。

昭和30年代はじめに江藤を含む4人は新進気鋭の文学者としてあいついで世に登場した。年齢的には開高が最年長で、石原と江藤が2歳下、大江はさらに3歳下で開高とは5歳違いだった。

 同世代でありながら、評論家としていち早く世に出ていた江藤は自信満々で明治・大正・昭和の作家たちをおもしろいように斬っていた。三者に対する批評は、大江を絶賛、石原を痛烈に批判、開高はその中間だった。開高に対する当時の江藤の批評は次のように要約される。

 

 開高氏は、日本の作家としてはめずらしく、現実よりフィクションを信じようとしており、彼の作家的野心は「寓話」創作の方向にある。『パニック』ではこの意図は一応成功している。『巨人と玩具』は作者の誤算のみがいたずらに目につく作品である。この作品には、作家がよく知っている題材を手の内にいれて思い通りにこね上げた印象があり、「寓話」ではなく出来の悪い「物語」になっている。『裸の王様』では、画塾の若い教師の子供に対する純一な共感が、この作品に清潔な感動をあたえている。今までのところ、開高健氏の最高傑作は『裸の王様』である。

 

 それにしても気になったのは、批評の量の違いである。『大江健三郎の問題』『石原慎太郎論』等にそれぞれ数十ページをついやしているのに対し、開高はというと『新しい作家たち』の中で3ページほど論じたに過ぎない。取り上げられ方が格段に少ない。

 

 図書館へ行き、『江藤淳 全文芸時評 上巻・下巻』の大部2冊を借りてきた。江藤は朝日新聞と毎日新聞で15年にわたり文芸時評を担当、発表された文芸時評は原稿用紙3000枚にのぼる。

 江藤の文芸時評は読み物として実におもしろい。そのたいていの批評が、現在でも的を射ていると思われるのには感心する。開高は24ヶ所に登場するが、そのほとんどが酷評である。

 江藤が開高を褒めるのは、ようやく『夏の闇』になってからである。昭和46年の毎日新聞の江藤の文芸時評を引用する。

 

 今月は、たまたま大江健三郎氏の『みずから我が涙をぬぐいたまう日』(群像)、開高健氏の『夏の闇』(新潮)という二大力作が発表されている。いうまでもなく、私はこの二人の作家と文学的出発を同じくした者である。つまり大江氏も開高氏も、私にとっては文壇生活の同期生のようなものである。

 爾来十有余年のあいだに、私たちの歩んだ文学的・思想的道程はさまざまだったが、いまニューヨークから帰って二人の作品に接すると、胸の内に不思議ななつかしさがこみあげて来るのを感じる。小説の文章を読んでいるうちに、私の耳の中に、開高氏のあの流暢な大阪弁や、大江氏独特のあの訥々とした話しぶりが、肉声として響いて来るのが感じられるのである。

 しかし、私の感慨にはもう少し深いものも含まれている。この二つの力作の行間には、いわば“奪い取られた音楽”とでもいうような、妙に惻々と哀切なものが流れているように思われるからである。

 

 このあと6ページにわたって論評し、「『夏の闇』が開高健氏という作家の、ほとんど十全な自己表現になっていることには、感銘を受けずにはいられない。」と結んでいる。

 

 開高が亡くなったあと、『悠々として急げ 追悼開高健』に江藤は一文を寄せた。開高が亡くなる1年10ヶ月前の昭和63年2月に、「新潮」創刊1000号記念の座談会で大江、石原をまじえた4人が赤坂の「辻留」で会った。座談会では、小説をなかなか書かない点を揶揄された開高が「釣りと宝石でいろいろと忙しい」と弁明にまわったことなども書かれている。しかし、江藤はその追悼文の中で『夏の闇』に再び言及し、同じ思いを披歴している。そして「自分が開高健とある大切なものを共有していることを確認した」と記す。江藤が『夏の闇』に真に共感を寄せていたことは間違いない。

 

引用文献

『江藤淳著作集2作家論集』1967年、講談社

『全文芸時評 上巻・下巻』1989年、江藤淳著、新潮社

『悠々として急げ 追悼開高健』1991年、筑摩書房


文:平松信実(開高健記念文庫)